新しいカテゴリを追加しました。
私の父親が薬害C型肝炎の原告になれるのか
これからの状況などを綴っていきたいと思います。
これまで私達家族が動かなかった理由は
1:カルテが残っていないので証明できないだろう
2:裁判費用などがない
3:国が認めると思えない
4:癌になってしまったのに、いまさら・・・という気持ち。
これで諦めていたのです。
でも厚生労働省が認め、国が謝罪した事で、私達家族もこれでいいのかな?
っと思いはじめました。
もしも、本当に父が被害者ならば・・・現在も癌と闘い続けている父親を思うと
今更ながらこんなに悔しい事があってもいいのか?という感じです。
昭和60年12月
それまで病気ひとつ、入院などした事もない父親がくも膜下で倒れ
伏見区の大島病院に運ばれ、手術しました。
当時は、今の医療現場とはまったく違い、手術室から出てきた医者の
血まみれの服を投げ入れる箱が無造作に置かれた廊下で、私達家族は
父親の手術が終るのを待っていました。
出てきた父親の手術をした医者の服もまた血まみれだったのをハッキリ覚えています。
その後大きな後遺症もなく数年が経過し
平成11年、肺気胸で入院しました。
その時の検査で、C型肝炎になっており、既に肝硬変に進んでいる事がわかりました。
おかげで、手術ができず、肺に穴を開け空気を送り込む緊急処置が施されました。
そして肝臓の治療を続け、癌になり、食道静脈瘤の破裂、下血、吐血
腹水、黄疸、エタノール治療、抗がん剤治療、週に2回の点滴など・・・
もう数えられないほど色んな事がありました。
これまで、私なりに調べて母親に訴訟を勧めたこともありましたが
いつも「そんなお金も時間もない」っと突っぱねられました。
もちろん私にも助ける事はできませんので、それ以上何も言えませんでした。
そして、先日の原告の勝訴により、大々的な新聞広告。
これを見て初めて興味を持ったのがうちの兄。
それまで無関心だったのに・・・今更何を言ってるんでしょう?と私は
思いましたけど・・・。
ただ相変わらず言うだけで何もやる気はないようですが。
で、母親もようやく重い腰を上げ・・・まず大島病院へ行きました。
もちろんこの病院は
非加熱血液凝固因子製剤納入先医療機関リストに入っています。
当時うちの家族の知り合いが看護婦さんだったのですが、その人は
現在もその病院におられ、看護婦長さんになられていました。
当時の記憶はあるもの、カルテが残っていないのでどうしようもない・・・という
想像通りの展開です。
そして、独立行政法人医薬品医療機器総合機構の相談窓口に電話をしたところ
裁判を起こしてもらわないとどうしようもないという答え。
さてどうする?
現在訴訟が行われているのは
東京、大阪、福岡、名古屋、仙台の5箇所。
その
弁護団に相談してみる事にしました。
が、電話受付時間も短く、混雑しているようなので、私がメールを送りました。
当時のカルテはないが診断書が見つかった事。
証明できるのか?
原告になれるのか?
裁判費用はどうするのか?など現状と一通りの質問を書き
送信!
さて返事は来るのでしょうか?
続く。
PR